27歳で発達障害が判明した私について

生まれて物心がつくと直ぐに気がついた

「周りとは何かが違う気がする」

「周りとうまく馴染めない、息苦しい」

 

幼稚園の頃から思ってた

 

小学校に上がると

周りの子達の喋る声

机や椅子を動かす音

チャイムの音

移動教室で廊下を歩く人達の足音や声

体育授業で外で叫ぶ先生のメガホン

目まぐるしく変わる黒板

ついていけない授業内容

読めない教科書

 

ひとつひとつの声や音に敏感で

集中できない、どんどん不安になる

 

目の前で会話をする人達は

一切仲良くはないから興味が無いのに

その子達の名前、誕生日、好きな科目、

前回の授業ではここを読まされてたな、

などどうでもいい情報は殆ど覚えてた

 

勉強面では漢字の読み以外できなくて

すべての授業で成績評価は1番悪かった

明らかに遅れをとってることを笑われて

テストも白紙で出しては

「なんでわからないの」と

毎回先生に怒られた

 

.......

 

小さいながら

「いろいろな敵」と戦っていた

 

親に言っても

「慣れる」

「文字の読みは見てるうちに分かる」

「テストは勉強すればいい」

 

.......

 

私の場合、

音や声に慣れるどころか

大きくなるにつれて酷くなった

 

文字の読みは確かに読めるようになったが

それも辞書を毎日本を読むように読んで

必死に覚えてどうにかなった

 

テスト勉強どころか

勉強のやり方がわからないので

これも大きくなるにつれて酷くなった

 

小学4年の頃

休み時間の音が苦手すぎて

友達もいなかった私は

その場からとにかく逃げたくて

トイレによく逃げてた

 

たまに女子が集団で入ってくる時は

耳を塞いでやり過ごした

 

心無い子が

「ここずっと入ってるけど誰なん?w」

「えーどうせしじみだろ笑笑」

「やばwwトイレマンじゃんww」

と言ってからかってくることも多かった。

 

しじみと呼ばれたのは

私服が地味だからという理由らしい。

その頃の私は服なんて着れればいいレベルの

頭だったのでオシャレなんて考えてなかった。

 

外側からトイレのドアを蹴られたりして

笑われた日もあった

そういう子達はチャイムが鳴ると

忠実に教室に向かうので

そういう子達がいなくなったあとに

「お腹痛くてトイレにいました」

と嘘をついて皆よりも遅れて

教室に入るのがその時の私に出来る

唯一の対策だった。

 

視線恐怖はその頃からあったので

教室に入ろうとした時に

皆が一斉にバッと見てくるあの感じを

受けないために自分の机まで

顔を伏せて両手で目を隠して

薄く開けた指と指の間から視界確保して

ようやく着席できるような感じだった。

今思えば変な子だなって思うし、

そういう子がいたら

からかいたくもなるよな。って思う。

 

中学は殆ど行ってない。

担任は女性。

「外面だけ熱血教師」だった。

他の教室の仲良い先生がいる場面では

不登校児ゼロを目指してるんで🥺☘️」

「うちの生徒いい子ばかりなんで🥺☘️」

と言いながら

 

私に話す時は

「別に学校来なくていいよ?」

「あなたが来ても来なくても

教室にはなんの変化もないし」

「皆いつもどおり授業受けて

成績評価されてまともに高校行って

働けるようになるだけだけど

あなたはまず学校にも来れないんだもの

成績評価なんてつける気ないからね☺️

悔しかったらちゃんと教室に来てね。

皆と同じ事が出来ない人は

大人になっても出来ること無いからね☺️」

と言われた。

 

ただ嫌だった訳ではなくて

「周りと何か違う」と思い込む窮屈さに

自分で耐えきれなくなってしまって

休みがちになってしまっていた

 

結局卒業式を迎えるまで教室には

1歩も入れなかった

 

おじいちゃん先生のいる心の教室には

毎日通ってた

無理な日は行けなかったけど

おじいちゃん先生はいつも優しくて

学校に行くと「おっ今日は会えたな〜」

と孫を可愛がるように遊んでくれた

 

卒業が差し迫った時期

私は高校には行かずに死のうと考えていて

親にも高校には行きたくないと言っていた

 

おじいちゃん先生は

話をとにかく聞いてくれて

たくさんのアドバイスをくれた

 

「学校行きたくないって思うのは分かる」

「もしここで嫌なことに向き合ったら

大きくなってなにかしたいと思った時

高卒という資格がどうしても必要になる」

高認という制度もあるけど、

勉強出来ないから難しいと思うのね」

「君が今頑張れたら僕はよく頑張ったねと

背中を押すから願書だけでも出して?」

「動かなきゃ変わらないけど、

動いたら何かしらの結果がついてくるから」

 

そんなふうに説得されて願書を出した

 

.......

 

 

定時制の高校だった

朝昼夜と通う3つのコースがある高校で

通いたい人のニーズに合わせて

通信制にも切り替えられる高校だった

「後期は勉強絡むから無理だと思うから

前期で思い切りアピールしてきなさい」

と言われ高校受験を受けた

 

結果は合格だった

そこから5年かけて卒業した

 

バイト朝昼行って夜は学校に行った。

お寿司屋さん、ラーメン屋さん、

配達のバイト、喫茶店

全て短期間で転々とした。

 

高校卒業後は喫茶店でバイトして

2年くらい続いた。

そこは今までの仕事で1番楽しかった。

 

仕事中にやることが分からなくなって

立ち尽くすことが多い自分に

自分のやるべき事や立場を

丁寧に細かく教えてくれた職場だった。

 

そこに勤めながら妊娠、出産があり

出産を機に仕事を辞めてしまった。

 

2歳の誕生日頃に離婚したが

その後は息子と2人で住むための家探しをして

2人で住んでいくために昼夜働いた。

この時期は実母に息子を預けてた。

 

保育園での他害行為が毎回の送迎で話され

息子のことで不安になり病院に行って

そこで初めて子供の発達障害の特徴を聞いて

いろいろ調べていくうちに

自分にも発達障害があることが判明した。

 

 

見えない敵が見えるようになって

私としてはとても楽になった。

 

 

診断がつかずにふわふわした状態で

「やる気ない変な子」「浮いてる子」

「目が笑ってなくて心が死んでる」

「空気読めない子」「無表情でつまらなそう」

「人の気持ちを理解しようとしない子」

「もっと自分の気持ちを表に出しなさい」

「顔つきや目つきがアスペっぽいよ」

 

 

今まで言われた言葉たちに

ずっとがちがちに縛られてたけど

すこし楽になった。