宇宙人が発達検査を受けた話

約30年、私は私を宇宙人だとは思っていませんでした。

顔も特に嫌いではなく、声も特に嫌いではない。

いたって普通の人だと思って生きてきました。

 

息子が産まれ、育児をし、離婚を経験し、かけもちで色々な仕事をした結果。

私は宇宙人であることが判明しました。

 

きっかけは息子の異常な暴れっぷりでした。

しかし、「やんちゃなだけだろう」「手のかかる子だ」

くらいにしか思っていませんでした。

 

まさか息子が発達障害だなんて。

そしてまさか私も発達障害だったなんて。

 

時間はかかったけれど宇宙人か人間かを識別するテストにたどり着いた。

この検査に行き着くまでに私は他人から色々な言葉をかけられて生きた。

 

 

「顔つき、目つきが障害者みたいだよ」

アスペルガーの類の人の顔に見えるよ」

「働く前に障害者としての診断を受けたらどう?」

「君は出来ないんじゃなくてやらないだけだよ」

「お前子供殺しでニュースに出そうだなw」

「俺の知り合いも発達持ってたけど大きくなったら治ったよ、だから大丈夫」

「なんでこんな簡単なことも出来ないの?」

「マニュアル用意しなくても出来るでしょ?」

「なんで時間が守れないの?」

「なんで約束すっぽかすの?」

「どうしてこんなことも出来ないんだ」

「お前よりもアタシのほうがお前の子供育てられそうだよ」

「あなたがいてもいなくても私のクラスは回るから」

「先生もあなたの対応するの疲れるのよ。来ない方がいっそ楽だよ」

「なんでこんな人間と関わっちゃったんだろう」

発達障害の子供持った時点で親としての人生終わったも同然だよ」

Twitterに向いてない人種」

「他人から煙たがられてそう」

「お前みたいなポンコツどこも雇わないよ」

「社会人としてのルールも守れない人間が社会に出てくんな」

 

 

もっと小さなときに診断を受けられる環境で生きていたら

私は大人になってからこんなに苦労しなかったかもしれない。

 

息子は4歳でK式検査に行き着いたけど

私は28歳になってやっと「発達検査」に行き着いた。

 

「WAIS-Ⅲ」という検査だった。

 

心理士さんには、終始「カタいよ、リラックス」と言われた。

1問1問進めるたびに手元を確認して少しずつ進めた。

2時間半ほどかけてすべてのテストを終えて次の日もテストをした。

 

細かいテスト内容は書けないけれど

一般教養から専門的な言語問題、模様を考える問題や模写をした。

 

  • 全検査IQ - 様々な力を合算させた全般的な知的能力
  • 言語性IQ - 言葉を理解・表現したり言葉を考える能力
  • 動作性IQ - 視覚からの情報を理解・処理する能力

という大きなカテゴリー分けが存在しており

  1. 言語理解 - 言葉の情報や自分の持つ言葉を状況に応じて出せる能力
  2. 知覚統合 - 目から情報を取り込んで関連づける能力
  3. 作動記憶 - 頭の中で情報を保存してそれを操作できる能力
  4. 処理速度 - 簡単な作業などを正確にこなす能力

この4つに分けられた細かい特性の検査をするのがWAIS-Ⅲだった。

 

検査の数値が同一になることはほぼ無く

出た数値=自分の全て、と考えることも無く

ただ自分の特性を知るうえでとても重要なデータにはなる。

 

私の場合、作動記憶以外の数値が全て70台であり

評定は「平均下~低い」に○の記号が羅列されていた。

作動記憶のみ100を超えていた。

数値の差 (ディスクレパンシー) は35ほどだった。

 

人によっては数値が全て100を超えていたり

大差なく検査を終えているパターンも数多く存在しており

発達特性に苦しんでいる人は本当に様々なんだな、と痛感する。

 

人それぞれが生きにくさ・困りごとを感じていて

「目には見えないところで辛さを感じているんだ」と

ネットの広い世界を眺めていると感じる。

 

自閉症スペクトラム障害の傾向にあるかどうかのテストも実施された。

33点以上で自閉症の傾向あり。私の点数は45点以上だった。

50点満点の検査らしく、ほぼ満点を獲得していた。

 

私の欠点・短所・ダメなところは

  • コミュニケーション能力に異常な拒否反応があり、会話が続かない。
  • 場の雰囲気を読めず、ルールが不明確な場面で混乱する。
  • 過集中を起こし、他の作業への切り替えがうまくいかない。
  • 細かいところや誰も気が付かないところに気が付き、考えずに指摘する。
  • 人と話す際、どのように話せばいいのかわからなくなってしまう。
  • 約束は覚えているけどうまく予定をこなすことができない。
  • 人間相手になると気持ちを量ることができなくなってしまう。

以上の点から自閉症という診断が付きました。

 

ADHDテスト・ASDテストともに満点を獲得し

私は見事に宇宙人となりました。

 

小学生の頃に黒板を見られず勉強ができなかったこと

違うクラスの声が聞こえて集中力が散っていたこと

掃除の時間に雑巾を触ることすらできなかったこと

今思うと若干のLD、聴覚過敏、手先の過敏さが原因していた。

 

小学生の頃に5人もいない友人を心無い言葉で傷つけてしまったこと

その友人だと思っていた人は実は友人ではなかったこと

 

その友人にトイレに閉じ込められたことで

私は家以外のトイレが恐怖になり、その呪縛から逃れられなくて

常にトイレ内の声や音に耳が苦しくなり

大人になった今も個室内でパニックになることもしばしば。

 

中学生の頃に学校に突然行けなくなってしまったこと

家を出る準備は出来ているのにドア前で足がすくんで

その場で吐いて泣きながら行きたくないとゴネた日のこと

担任の先生と合わなくて常に暴言を吐かれたこと

「あなたがいてもいなくても私のクラスは回るから」

「あなたがいるとあなたのことも考えないといけない」

「先生の仕事増やさないでくれる?来なければいいのに」

「学校にきても何もする事ないでしょ?来なくていいよ」

私がつらいと思っていたのは

「ドアを開けた時にクラスメイトが一瞬振り向いて私を見る」

その動作がどうしても辛くて3年間を無駄にしてしまった

のちにそれは対人恐怖症(社会不安障害)という診断が付くことになる。

 

高校には行く気がなかったけれど

嫌でも前期は受けろと非常勤の先生や両親に説得され

嫌々受けた定時制の高校受験に受かってしまい

「無理だと感じたらすぐにやめよう」と思っていた

結局ずるずる通って何年も在籍した

その数年でいろいろな人との出会いと別れを経験した

小中散々な思いをしたから高校に入学した際は誰とも喋らず

授業外の休憩時間は周りの騒音から逃げるために

常にイヤホンをして「近寄るな」オーラを出していた

 

それでも授業中になると気になって話しかけてくる人もいて

その人たちと仲良くなったけれど

「なんでこんな人間と関わっちゃったんだろう」

と言われる結果に終わってしまった。

 

きっかけは「AとBの友人派閥、どちらに付くの?」

というしょうもない内容だった。

 

AとBは喧嘩しており、どちらとも共通の友人だった私は

AとBから「どちらの派閥に付くの?」と聞かれる。

 

「喧嘩は面倒だからどちらも面倒くさい」と答えたら

どちらとも離れた。次の日AとBは仲直りしていた。

私のみ離れる結果になった。

「くだらない人間関係の環境に生きてるな、私」

と思いながらも、学校は辞めなかった。

 

卒業するころには友人と呼べる人は一人もいなくて

誰とも深い関係にならないように

仲良くしていてもどこか壁があるような

そんな人間を演じてなんとか卒業した。

 

いざそんな人間が社会に出てみたら

完全にひとりぼっちになってしまって

職場を転々とした

 

マニュアルのある職場はわりと長続きした。

最長2年。

マニュアルが存在しない職場は長続きしなかった。

最短3時間。何なら面接すらバックレる。

 

社会不適合者とはまさに私の事だ、と思いながら

約30年を生きてきた

 

発達検査を受けてみて思ったことは

「やっと私という個体を知る事が出来た」

 

他人から見た私は「見た目はめちゃくちゃ急いでるのにポンコツ

でも私は「頑張ってるのに全然頑張ってるふうに見られない」と思ってる

 

それを表に、言葉に出せない

常に頭の中には意見がグルグル回っているのに

それを言葉に出して表現することができない。

 

言語理解凹で「発達の遅れが認められる」に○が付くほどの数値で

「自分の言葉で会話が出来ない」という致命傷を抱えている。

心理士からも「SSTを受けましょう」と言われる始末。

(SST=ソーシャルスキルレーニング)

 

これから30歳を迎えるなか、

今更人間と関わる練習をしましょうって。

「私、もう手遅れじゃないですか?」と聞きたかった。

でもその言葉すら出てこなくて聞けなかった。

 

幼稚園の頃から人混みが苦手で

自分から話しかけられる人はクラスには1人もおらず

常に先生とくっついていた

今思うと人見知りで、それは社会不安障害に繋がっていく

高校生~産前、産後~2年間ほど投薬治療をするが

完治はしておらず、最近再発してきている

 

生きづらさは常に変わらない。

何なら大人になるにつれてどんどん人の目から逃げている。

発達障害者がどれほど苦しい思いをして生きているかは

誰の目にも見えないし、軽度~重度まで様々だ。

 

検査を受けることで少しでも自信がついて長所を見出せるなら

この検査を受けた恩恵は受けられるだろう。

 

社会復帰は、正直まだ出来そうにありません。

他人と折り合いをつけて働くことが怖いです。

私がいることで職場の秩序を崩したことが何度もあり

これ以上他人に迷惑をかけられないな、と感じています。

 

中には、「お前が言わなければバレなかったのに」と怒られて

私が結局仕事を辞めることになった職場もあった

 

私は「悪いことをしている、それを報告しただけだ」と思ってた

でも他人からすると「余計なこと言うな」「空気読めないバカ」

 

空気ってなんだ。難しいな。

悪いことを報告しちゃいけない空気ってなんだ。

みんな悪いことしているのか?

みんなそれを見過ごして人間は生きているのか??

私にはその空気は合わないみたい。

 

むしろ、そんな空気が分からないのが

私の良いところなのかもしれない。

 

よく言えばウソが無い素直な私。

悪く言えば空気が読めないバカな私。

他人から見た私は空気が読めないバカな私。

私から見た私は些細なことに気が付いて指摘できる私。

 

現在はパソコンで仕事を受けている。

他人と一切かかわらない代わりにお小遣い程度の稼ぎを貰う。

でも今の私にとっては誰とも喋らない日々のなかで

心に溜まる感情を吐くことが出来る唯一の楽しみでもある。

ブログとはまた違う楽しみを持って取り組んでいる。

 

人生の折り返しに立っている私ですが

宇宙人らしく居場所をひっそり探してなんとか生きています。

宇宙人じゃなかった時代の私が元旦那や義家族にされたこと

去年の記事に自分の感情をプラスして再投稿することにしました。

太字で書いてあるところ、4年経ってやっと感情を出せました。

暴言ですが大目に見てください。

 

 

 2年間の結婚生活の間に

とんでもなく波乱に満ちた出来事しかなかったです。

よく生きてたよ私、えらいえらい😇

 

 

____

 

 

 

 

 

産後の訪問編

 

・産後里帰りできなかった私に「気を使った義母」が

退院してから2か月間にわたり毎日自宅に訪問してきて

毎日朝9時から夜22時までずっと居座る

(特に家事を手伝うこともせず、エアコン目当てにやってくる)

(産後1か月の健診では母乳は6mlしか出ておらず泣く泣くミルク育児に切り替える)

このことを義母に伝えると「ストレスじゃない?」と言われる

ストレスの原因おめーだよ😇

とは言えず心に留める。

 

1か月検診の際、先生には

「子供さん大きくなりそうだしミルクあげてOKだよ」

「お家に訪問されて辛かったね🥺」

「お母さん無理したら子供も泣いちゃうしさ」

「楽しく育児して気をラクにね」

と言われ

私大泣きした。

 

 

そのくせ我が家のフル稼働エアコンの設定温度を勝手に変えたり

「エアコンは赤子に良くない」と言って勝手に止める

勝手に設定変えんな消すなつーか帰れよ😇

と言えなかった当時の私を呪いたい。

(今思うと表出が凹すぎて)

 

 

・訪問期間中、義母は時々昼ご飯を持ってきていた

「昼飯冷やし中華買ってきたよ~赤子見ててあげるから食べな~」

と言いつつ義母が食い始める

食い終わったあと2時間寝始める!?

起きて、私の分として買ってきたご飯が残ってるのを見た義母

「まだ食べてないの?!あたしの好意なんだと思ってんの???」

 

帰れ😇😇😇

しばくぞいい加減😇😇😇

 

・頼んでもない買い物に行ってきては「食わねえよ」って思うものばかり買ってきて

(母乳あげてるのに鯖とか牛乳とか)

人んちの台所を何も言わずに使ってそのまんまにする

・人んちのスポンジ乱用して掃除始める

(掃除用、洗い物用、フライパン用と分けていたのに死にたい)

産後訪問してきた義母、珍しく

「洗い物とか大変でしょ~やっといたげるから赤子の相手してな😇」

→よく見たら洗剤スポンジ不使用水洗い

余計な仕事増やすなクソ

 

 

・生後半年になっていない子供にお酒を飲ませる

(お酒やタバコ片手に喋っている義父に抱っこさせろと言われて

私は頑なに拒否するが元旦那に抱っこさせてるうちに

一瞬の隙に義父にわたりお酒を飲まされそうになる。

未遂に終わるがこれを機に私は義父を嫌いになる)

〇す気?????

これにはさすがにキレた。

 

 

・車移動の際

義母「あなたは来なくていいわ。」

「赤子抱っこで連れてくから✋」

逮捕されろそのまま😇

おまわりさんこいつです😇 

実際は必死に拒否して嫌われる覚悟で

息子を離さなかった。

 

 

 

・抱っこ紐のカッチンを勝手に外してくる

話題の抱っこ紐外しおばさんはここに居た

 

 

 

「や~もう寝てるところ可愛いわって思って

抱っこしたら落としちゃったわよww」

おいババア笑いごとじゃねーぞ😇

地獄に落とすぞコラ😇

 

・義両親「チャイルドシート?なんだそれは。」

「俺らの頃はクーハンで移動してたぞ!」

「クーハン買いなさい!」

 

時代は令和なんですけど😇

 

 

義両親には「お前の育てかたがおかしいからまともに喋んねぇんじゃねぇんw」

「ちゃんとやってるんかいなw」

「ちゃんとやってねぇから喋んねぇんよ」

「もっとドシッと構えなさい?」

当時は会うたびに言われた。

自閉症だったんだよ。

しかたないやん喋らないのも。

うるせえからお前らもう黙れ。な。黙っとけな。 

(急に弱気)

 

 

 

 

食事編

・1歳未満の子供にダイレクトに蜂蜜与えようとする

・歯も生えてないのにとんかつ食わそうとする

・1歳児にチョコレートやらクッキーやら

お土産で毎回持ってくる(全て私の胃の中)

 

・義母が咀嚼した硬いご飯を息子に食べさせようとする

(虫歯原因になるし単に気持ち悪くて全拒否)

 

 

人として失礼な言葉編

 

・離婚時、義両親「精神病んだ母親なんて

居ても仕方ないから私達に子供よこしなさい」

 頭がおかしいタイプの人なんだな

 

 

 

・子供の今後を勝手に想像する

「あなたには似ないでほしい」

「うちの子の小さい頃そっくりなのよね」

見事自閉症だったよ😇

 

 

 

 

私の中のベスト3に入るつらかった出来事

義理兄夫婦が結婚式を夢の国のホテルで挙げる事になり

生後2ヶ月の首ホヨホヨの息子連れて3時間越えの移動は厳しい

撮影隊も入るなら泣き声入っても嫌だし、うんkする可能性もあるので

という理由で断ったところ

 

 

義両親「結婚式より赤子のお披露目会なのよ

「親戚みんな集まって赤子見せる機会なんて無いから絶対来なさい」

 

お披露目会????????

 

人の結婚式だぞ????

 

脳内ラベンダー畑なのか???

 

当日まで生き渋っていたが元旦那の面子もあり

結婚式に出席したところ

終始義両親は赤子ベタベタ

夫婦から渡されていたカメラで赤子撮影しまくり

 

 

これに新郎新婦激おこ。

(当たり前やろ) 

 

 

 

結婚式終了して自宅に帰宅した数時間後に

結婚式を挙げた夫婦から呼び出しをくらい

家族会議しましょうと言われて義実家へ。

 

 

何故か私が叩かれる。

元旦那も知らん顔で

全員から私が叩かれる。

 

 

叩かれた理由は

「結婚式に呼ぶなんて社交辞令」

「まして赤ちゃん連れて来るなんて論外」

「私たちより赤ちゃん目立ってた」とな。

 

 

 

は???????

こっちは断り続けてたわ🤤

 

 

 

 ―――――

 

 

こんな経緯のなか、意思疎通の図れない子供相手に

密室育児していくうちに育児うつ発症してしまい

子供を生かすこと以外なにも

手につかなくなってしまったときに

元旦那の出会い系漁りが発覚して

離婚になりましたとさ。

めでたしめでたし

 

仕事に向かない宇宙人が仕事を探す旅に出る

タイトルの通り、仕事探し中です。

なかなかうまくいきませんね。

 

幼稚園再開して1か月が過ぎようとしていますが

この1か月間、まともに就労することが出来ませんでした。

幼稚園送って2時間でお迎えの2週間、3時間でお迎え、など。

その時間の中で出来たのは生産性のない暇つぶしをするだけでした。

幼稚園から自宅までは片道20分以上かかる距離なので

帰宅してもすぐにお迎えになってしまう1か月でした。

 

レジン、カラオケ、お酒を飲む、料理を楽しく作る、など

やりたいことはたくさんあったはずなのに

なにひとつ楽しむことができず

レジンにいたっては作業台を出すことも出来なかった。

 

やりたいことが出来ないしんどさにくわえて

コロナ自粛ムードで疲れてしまい、家事すらまともにやってない。

 

発達障害に関連する話をすると

息子の方はオンライン診療でカウンセリングを受けています。

通話やZoomを使用して息子の状態を先生と話したり

療育の先生ともそうやってやり取りしていました。

6歳になる年に3~4か月自宅待機が続いたことが影響して

他害行動や自傷行為がひどくなった気がします。

他害行動については少し落ち着いてきていましたが

幼稚園が再開してからはお友達の作った物を壊してしまう行為が

始まってしまったようで、幼稚園との間でサポートを考えています。

 

自傷行為については自分の頭を傷つける行為をすることがあったり、

危機管理能力が落ちたのか見境なく走って転んだり、

思い切り爪を立てて腕に傷を作ったりするようになりました。

親としてこの3点は少しずつ改善していきたいと考えています。

 

私の方はというと発達障害に関する本格的なテストを受けるべく

診察してもらう病院を変えることにしました。

今まで通っていた病院ではテストを行うための心理士が居ないため

本格的に数値に出して自分の事を知りたいと考えて転院を決めました。

 

仕事の向き不向きで言うと、誰とも喋らない職場はわりと長続きした印象で

マルチタスク臨機応変・他人と多くかかわる・音が乱雑する職場は

すぐにやめてしまい転々としていた印象があります。

 

相手の感情を読み取るのが本当に苦手で

今、相手が何を考えているのかがわからないため

こちらが適応して話しかけることが出来ず、喧嘩になったり

変な子だと思われて第一印象で避けられる対象になってきました。

 

これからテストを受けるにあたって、このテストを通して

私の特性がデータとして表れることになるので

正直向き合えるかどうかで言うとわからないけれど

29歳の誕生日を前にした宇宙人がまともに仕事しようと頑張っています。

 

 

 

 

 

 

 

私はよく、自分の事を「みそバターラーメンのバターだ」と考えます。

定型の人たちがみそで、異質な存在である私たちがバター。

 

 

 

 

バターを好んでのせて食べる人は少なくて

(発達の人と好んで関わってくれる人は少なくて)

 

溶けると一気にみそ(定型)に同化しようとして紛れ込んで

(定型人間の中に紛れようとする発達人間)

 

どこにいるのかわからなくなる

 

けれど食べると(かかわると)どこにいるのかすぐわかって

「バターの存在」が知られてしまう

(発達の存在)

 

 

 

っていつも考えていて歪んだ考え方かもしれません。

 

こんなことを考えているからうまく仕事が探せないのかもしれません。

 

でもそのくらい、発達を持った人たちが普通の人の中に紛れて

仕事を探すことは大変なことなのです。

 

 

他人とうまく折り合いをつけて世の中に適応することが出来ないのです。

ブログ上ではこんなに喋れるのに、リアルに1歩でも踏み出すと

一言も本音を言えず、常に嘘をついて相手を傷つける生き物になってしまうのです。

 

 

定型でも人間関係には悩むよ、とか

発達だということだけでそこまで思い悩まないで、とか

色々意見はあると思いますが

 

 

定型の人とかかわることで発達側の人が傷つくだけではなく

定型の人を傷つけてしまう恐怖も分かっているだけに

何も考えずにやりたい仕事をすることが出来なくて苦しいのです。

 

 

私がもし定型で、私のような人が職場に入ってきたら

たぶんドン引きして関わらないようにしようとすると思うから

私は「そう思われる側の人だ」ということをしっかり意識して

浮いていても出来そうな仕事をなるべく選びたいところです。

 

来月の自分の発達検査に備えて、今は出来ることをやっていきます。

今更ながら発達親子の自己紹介。(長文です)

去年の9月からちまちま記録していますが

去年は自分に余裕が無くて

ブログに自分の気持ちをまとめるので

精一杯だったので。

 

今更ながら、発達親子の自己紹介を

ちゃんとしておこうかなと思い

今日はブログまとめようと思います。

 

 

〈息子〉

5歳。今年6歳。

ADHDASDの併発。ADHDの方が少し強い。

勉強が段々できるようになり

今は足し算、引き算、アルファベットの読み書き

漢字が多少読めるようになってきた。

足し算引き算読み書き漢字、これすべてマインクラフトのおかげ。

マインクラフトに出てくる漢字の読み方や意味を理解してる。

 

たぶん単体で漢字が出てきたら読めないけれど

剣、とか盾、とか樹木、とか。

ゲームに関連する漢字は攻略本片手にずっと集中して読んでる。

その集中力をできれば他のことに向けさせたいところ(親としては)

 

LDの心配もありましたが、ここはまだグレー。

読めるけど見本なしに文字が書けなかったり、手紙のように自分で考えた文章を

紙に書けないというところが気になる。

(来年入学だが、黒板の写し書きなどはどうするんだ…?と考える)

 

好きな事への執着・探求心はとてつもないけれど

苦手な事・不得意なことには一瞬で飽きてしまい気が向かず。

切り替えがうまくできない事や他の子供の輪に入っていけないのが

見ていて目につくところだなと感じる。

幼稚園に行っていても持ち物確認の際に

つまずいてしまうことも。 

 

幼少のころは目がなんとなく合わず

こちらがどんなに目を見ても

黒目の近くを見ているような、完全には合ってないような目線。

1歳に入ってから歩けるようになったが、歩けるようになったら

今度は多動がひどく、追いかけられない。捕まえられないぐらい速い。

そのころすでに体重は12キロ近くあり、抱っこもおっくう。

1歳のころは発達障害の文字も知らなかったので、こういう子なんだと思ってた。

でも今思うと多動だったんだな、知らなくてごめんね、なんて思う。

 

ワンオペ育児・群馬なのに車がなく買い物はすべて徒歩。

休みの日に車を出してもらって買い物に行っても、息子は私が見ながら買い物。

ひとり車に残って悠々自適な元旦那。

そこで30分でも、買い物のあいだ俺が見てるよの一言が欲しい。と感じながら

多動のひどい息子を連れて買い出しに。

周りは「しつけのなってない子どもを連れて…」

と言いながらこちらを見る人たち。

私は胸が押しつぶされる

 

しつけのなってない子どもじゃないんだよ。

こういう子なんだよ。どうしようもないんだ。

手つないでて、お会計済ませようとして手を離した2秒後に

もうそこには息子はいないんだ。

私はいつもお金を渡しそびれて追いかけては

店員さんに「大丈夫ですか…汗」と声を掛けられて

混んでるのにごめんなさい、後ろの人ごめんなさい、と思いつつ

息子にイライラしてしまう日もしばしば。

 

そんな追いかけまわす日々は2年ほど続いた。

買い物のたびに見られてしんどい、と元旦那に伝えると

「気にしすぎだよ」「周りにそんな子はいない」

「お前のやり方が悪いからそうなる」「じゃあ俺が抱っこしていくよ」

しまいには抱っこ拒否で結局わたしが抱っこしながらカートを押す始末。

お荷物じゃないか。お荷物が増えただけじゃないか。

カートすら押してくれないのか。考えられないよ。

なんて考えながら毎回カリカリしてた。

 

私もADHDゆえ、ブログを書くと話がそれてしまう。

そんな裏話どうでもいいんだよ、なんてね。

戻ります。

 

2~3歳まで視線が合わないことや他害の行為のひどさが増してきて

園の先生に注意されない日がないほど毎日注意されており

・お友達の上靴を水が張った花壇に投げてしまう

・お友達の持ち物を壊してしまう

・誰かしらを毎日叩く・殴る・押す・引っ張って転ばせるなど繰り返している

毎日注意されているとこちらもしんどくなってしまい

とうとう息子に今までにないくらいの顔や態度で怒ってしまいました。

その日を境に他害がひどくなり、負のループ。どうにもならない。

逃げ場がない、と感じて保健センターに発達相談に行ったのは4歳のころ。

そのまま総合病院への受診を勧められ、電話相談して予約。

息子はK式の発達検査を行い、ほかにも聴覚過敏の検査をした。

1~2時間検査をしてる間も、設問に答えられなかったり

手先の検査は20個のビーズを組むことが課題だったけれど

2個組んだ後から自分の好きに組み始めてダメダメだった。

発達検査が終わって先生との話し合い中、息子は脱走して病院内を走る。

病院内を走らないで、と伝えても伝わらない。

息子はさっそうと楽しそうに走り回る。

場所が違えばすごくほほえましい光景なのに。

発達持ちが病院を走り回る姿は、周りの人たちにどう見えただろう。

またここでもしつけのなっていない子供だ、と怒られるだろうか。

その時に先生に言われた言葉は「ここでは気にしないで」の一言で。

 

初めて自分の育児を否定されなかった瞬間だった。

病院で大泣きした。

こんなに暴れまわってるのに怒らないの?

こんなに大声上げてても受け止めてあげるの?

病院なのに?怒らないの?なぜ?

私の中には疑問しかなかった。

 

先生いわく、「気持ちが昂っちゃってる時だから止めたら悪化する」

「こういうときは、こちら側も気持ちが高まっているように見せかけて

敢えて息子くんのアクセルにブレーキをかけに行く」

と、面白いたとえを交えつつ対策を教えてもらった。

 

その日から、息子のアクセルのかかった状態に

私がブレーキを踏む、というやり方が安定した。

 

静かにしてよ!!うるさいよ!!と声を掛けるときがあれば

「それは声が大きいかもしれない」

きびきび用意していくよ!早くしてよ!と声を掛けるときがあれば

「ママもよくゆっくり用意するよ」

「でも、時計の針が〇のところに来るまでに出ないと間に合わないかな」

「〇になる前に用意しておけるとすごく楽だよ、ゆっくり出来るよ」

と穏やかに伝えられるようになった。

 

だが、意識がそれると私もガミガミ言ってしまう日もある。

ガミガミしてしまう時こそ、病院の先生に言われた言葉を思い出す。

「今は気持ちが昂ってるから止めたら悪化する」

この言葉の重みは今もずっとあって、先生ってすごいなって思う。

 

親子の診断がついてからは今年が2年目だけれど

親側からも何か息子にアプローチができないかと考え、

・はじまりと終わりの感覚を敢えてアナログ時計で示す

・数字と針がくっついたらはじまり・終わりを促す

・1日の予定をなるべく前もって伝える(切り替えられない時の為)

など、簡単なことから実践するようにしてみた。

 

療育のように視覚支援が完璧ってわけではないけど

聴覚よりは視覚優位な息子なので

予定をボードに書いて「今日は〇の日」「今日は△の日」と

一目でわかるようにしている。

 

2歳のクリスマス前ごろから5歳の誕生日がくる前まで保育園に居たが、

保育園での生活が困難な事・他の園児に対する暴力がひどいことなどを

園の先生に指摘され、話し合いのもと5歳の誕生日がきたころ退園が決まる。

 

その後は児童発達支援事業所に、毎日4時間の通所をすることに。

通所開始してからはわりとリーダーシップを発揮してくれて、

通所しているほかの子供達が2歳くらいの子供なのもあり

自分が率先して先生を手伝わなければと頑張っていた様子。

 

幼稚園に移っても問題ないだろうとのことで周りのサポートもあり

無事に今年2月に途中入園という形で入園する。

(サポートに回ってくれたのは離婚当初からお世話になっている保健師さんと

通っていた児童発達支援事業所の先生たちが園探しを手伝ってくれた)

 

現在はコロナの影響もあり2月中10回行けたかな、というところで

そのまま年長さんになってしまい、まだしっかり通えていないが

お友達の名前も3人ほどしっかりと覚え、遊んできた内容などの報告も

してくれるようになったので少し安心している。

他害行動は落ち着いたが、今はどちらかというと自傷に向いているので 

 その面のサポートを親側や児発の方でどうにかしていきたい。

 

発達障害って言葉ではポンと言えても本当に人それぞれ度合が違って

赤ちゃん期に見抜いた親は本当に些細な変化に気づいた親だと思う。

 

私も気にはしていたが、まさかそんな言葉の障害があるとは知らず

息子に定型児童が通う園に行ってもらって同じように生活してもらおうなんて

それはもはやかなわぬ願いだったんだよな、と今は思う。

 

今の幼稚園に繋がるまで時間がかかったけど

園長や先生たちは暖かく迎えてくださった。

「こういう子はうちにもたくさんいるから大丈夫」と言って入園許可を出してくれた。

 

「息子くん、今日は自分で上靴がはけてお片付けも出来たんですよ」

「今日は息子くんは自分でカバンを教室まで持って行けたんですよ」

なんて、5歳児童が言われないであろう言葉を毎日かけてもらえる。

これだけの言葉なのに、実は私も息子も救われてる。

今日はできたね、えらいねって声を掛けられる私がいて

今日は頑張れたよ~!って笑って帰ってくる息子を見られて。

保育士を尊敬してる(コロナの対応も完璧すぎて惚れた)

卒園式確実に泣いてしまうな、なんて思いながら日々を過ごしている。

 

最後になるけれど

 

発達障害かもしれない

って疑った時には、誰の言葉も受け入れずに

自分の思った直感を信じて病院や保健センターに相談しましょう。

私も友達や離婚する前の家族・親戚に相談したりしてきましたが

言われる言葉はすべて守りの言葉ばかりで

「お母さんが過保護だとそういう風になっちゃうよ」

「そういう子には見えないけどなあ」

「そういう子だったらもっとひどいよ」

「うちも〇〇だったけど大丈夫だったよ~!」

こんな言葉をかけられることが多々ある

 

私も言われたからわかるけれど

「そういう子」「そういう風」

ってなんだろうって感じた

 

同時に私も「まさか息子が…?」と思っていたので

知らないあいだに勝手に発達障害に対して

なにかイメージがあったのかもしれない

 

調べてみるとイメージとは全然違って

子供が今何で悩んでるのか、を理解できるようになる

親が何も知らないより

子供のために少しでも知っておけるとすごく気持ちも楽になる

 

今子供はこういう気持ちだから困って泣いてるんだ、など

理解できる感情の幅も増えてくるので周りの言葉は信用しない。

きれいごとばかり言ってくる人は特に。

きれいごとばかり言ってる人に限って定型児童しか育ててないんだ。

発達児童を抱える親御さんに出会う機会や保健師に相談する機会がなかったら

私は4歳の息子の発達障害を疑って病院に連れて行くこともなかったかもしれない。

きれいごとを受け止めたら私も息子も時が止まったまま社会に取り残されていってた。

きっと障害のことを知らずにいたかもしれない。

病院に行くときは勇気が必要だったけど、勇気を振り絞ったら楽になれた。

親子で診断がついて安心した。

離婚した当時、私は「宇宙人」じゃなかった。

 

4年前、離婚した。

一人息子の親権は私だ。

協議離婚だった。

 


理由は沢山あるけれど

元旦那は私が悪いと思ってるだろう。

私も、私が悪いんだろうなと

ずっと思ってた。

 


離婚に繋がった直接の理由は

 


・元旦那が当時生後半年の

息子を蹴飛ばした事

 


・1歳半過ぎても喋らない、と

発育面での心配がある事を話すと

「3歳過ぎてまともな会話が

出来るようになるまでは

育児に参加する気はない」

「日中ろくな育児してないんだ」

「まともな母親じゃないからだ」

と言葉をかけられたこと

 


・生活費は毎月4万支給なのに

離婚する年の生活費はほぼ無し。

(5000円1回、1万が2回のみ)

(おむつと買い物代で消える)

(元旦那は3合を1人で食べるような人)

(とてもじゃないが4万でも足らない)

 


・仕事の会議だと嘘をついて

出会い系の女の子にお金を渡して

ラブホや車で処理してもらってた事

 


などなど。

 


息子を蹴飛ばした状況は

夜泣きが酷い時だった。

2時間あやしても泣き止まず

母親の私も一緒になって泣いて

気分転換に外に連れて行って歩いて

家に戻ってきても泣いてて

どうしよう、と考えていたら

 


「うるさいんだよ」

と起きて壁にひと蹴り。

床から浮いて飛ぶ息子。

真冬の冷たいフローリングの上に

転がっていく息子。

2〜3時間泣かれても

心折れずに頑張ろうとしてた私は

気付いたらキレていた。

 


それでも父親か

ふざけんな

どんな神経してんだ

 


他にも言ったような気はする。

 


更に激しく息子を抱きかかえて

ひたすら別室であやした。

(怪我は無かった)

 

 

 

 


息子生後2ヶ月の頃、義理兄夫婦の

結婚式があった。

義理兄夫婦には子供は居なくて

私の息子も首がふわふわな頃。

 


義理兄夫婦の結婚式に生後2ヶ月の息子を

連れて出席して欲しいといわれた。

 


私は「首もふわふわ座ってるくらいだし、

まだミルクもおむつも頻回あるし、

撮影用のカメラが入るなら尚更声が入ったら

まずいので遠慮したい」と伝えた。

しかしそこまで伝えた上で了承してもらい、

義理兄夫婦は夢の国での結婚式を迎えた。

 


道中の義両親の会話に耳を疑った。

「親戚一同揃った結婚式なんてレアだから

これは初孫(息子)のお披露目会だわ」

普通の人ならこんなこと言わない。

 


新郎新婦がふたりで写真を撮ったり

撮影隊が入っている時も

普通なら新郎新婦を見るシーンなのに

義両親は私から息子を奪って

親戚に見せびらかしに行ったり

 


式中に息子がふがふがしないように

先にミルクを済ませて寝かせて出席したが

慣れない環境を察したのかふがふが。

 


泣き声を上げる前に...と席を立ち上がり

最低限音を立てないように1人で静かに

退室したら義母が勝手についてきて。

義母の足音を聞いたスタッフさんが来て

「お静かに願います」と言われてたり。

結婚式を台無しにしてしまったことがあった。

 


帰宅してから義理兄嫁には

「あなたが来たからこうなった」

「何で社交辞令も分からないの?」

「察するのが苦手なの?」

「こういうのは行くって言って

行かないのが普通だよ!!」

「お義母さんに写真頼んでたのに」

「全部息子ちゃんの写真だし」

「ふざけるな、お金が無駄だ」

「一生に一度を台無しにされた」

とわたしばかりが責められた。

 


元旦那は一切フォローには

回ってくれなかった。

 


わたしは何度も断っていたし

直前にも何度も断った。

 


でも何度も「気にしなくていい」

「家族になるから来て欲しい」

と言われ続けた。

 


そこまで言われて断っても

行ってしまった私が悪かったのか。

 


まさか式の現場で義両親が暴走するとは

思っていなかったんだ。

 


義理兄夫婦の晴れ舞台だから

抱っこされそうになっても

「夫婦が主役だから...」と逃げて

息子を義両親に渡す事も拒否して

そこまでしても私が元旦那に

抱っこ変わってもらった瞬間を狙って

義両親が近づいてきて抱っこ交代して

親戚に見せにいっては私が取り返し..

 


それでも私のせいになってしまった。

ずっと引きずってる。

いつ忘れられるかな。

忘れられないかも。

 


義両親や義理夫婦とはこの話以来

喧嘩が頻回あったのだけれど

義理夫婦の結婚式終わりから

元旦那の育児の参加は無く

元旦那や義理家族に対しては

すでに心が折れていて

 


義理夫婦の話で産後2ヶ月の私は

かなりメンタルをやられたが

 


それでも衣食住が確保されてるから

理不尽な義家族の事はなるべく忘れて

とにかく我慢して耐えて

目の前の小さな赤ちゃんを

生かすことだけに集中していた

 

 


「あんなパパでごめん」

生後半年で初めて思った。

 

 


「いつか離れるかも」

初めて離婚という選択肢を考えた。

 

 


そばにいたら私はいつか

息子と一緒に消えてしまいそうだ。

ニュースに出てしまうかもしれない。

そんな風に思いつつも

 

長く付き合いがあっての結婚もあり

出産して、離婚だと言える経済力もなく

毎日生きるのに精一杯で麻痺して

日々の家事を慣れないながらも

頑張ってきた。

 

 


だけど、これだけ生きづらくても

この頃の私はまだ

「自分は宇宙人らしい」

という事にも気付いていなかった。

 

 

 


結婚していた頃の私の辛さ。

 

 

 

 


家事の進め方が分からない。


洗濯を回した事を忘れる。


掃除のしかたが分からない。


息子の声がしんどい。

(後の検査で重度の聴覚過敏が判明)


家事の配分が苦手で

料理にエネルギーを振り過ぎて

他の家事が手につかない。


出かける準備がうまく出来ない。


自分の意見が言えない。


など。

 

 

 

出来ない時は何も出来なくて

出来る日でも何かしら家事を忘れて

毎日のように怒られた。

 


なんでこれが出来ないの。

こんな事誰でも出来るよ。

 


こんな言葉はばんばん返ってくるけど

相手は行動は起こさず手付かずで

「お前がこうしたんだからお前が直せ」

「何で俺がやるの、俺ここ汚くしてない」

 


全部私のせいだなと思ってた。

 

 

 

のちに息子とふたりで検査に行くが

この私の辛さには名前があった。

 

 

 

 


自閉症スペクトラム

アスペルガー症候群

ASD

 

 

 

 


・社会的なコミュニケーションが取れない

・他者への興味が湧かず消極的に思われがち

・自分の中でのルールやこだわりが人一倍強い

・空気が読めず、場違いな発言をしてしまい

ひどい場面では相手を傷つけてしまう

・感覚過敏(または鈍い)

ex)

服の素材1つでイライラする

食べ物の好き嫌いがはっきりしている

転んで痛いはずなのにケロっとしている

表情筋の動かし方を忘れたのかと思うほどに

顔の動かし方がわからない。

笑ってるのに怒ってるの?と聞かれたり

またはその逆もある。

 


などなど。

 


「人並みに悩みを抱えて生きる」

というレベルを軽々しく超えていく障害。

 


私は離婚してから

自分が宇宙人だったことを

知ってしまった。

 


知らなかったとはいえ

元旦那をカサンドラ

させてしまったのかもしれない。

 


もしかすると

私との生活において

不満が生じて浮気したり

子供を蹴ったりしていた元旦那は

普通の反応だったのか。

私が過剰に反応していたのか。

 


離婚しようよと私から伝えた日から

今もずっと自分を責めてる。

 


小さいうちから自分の生きづらさは

分かっていたわけだから

結婚する前に私が検査に行けば

相手を傷つけることなく

いられたのではないか、とか

 


変な話、遺伝するって分かってたら

こんなに辛い生きづらさを

持った子供が産まれるかもしれないと

先に分かってたのかも、とか。

後悔はないけど反省はしてる。

 


2人目が欲しいと思っても

すごく怖い。

いちばん怖いのは

2人目が健常児だったら。

私は発達障害を持つ子供を

育てたことはあっても

健常児を育てたことはない。

子供から正論いわれて

あたふたする自分の姿が

目に浮かぶ...orz

 


なので私が今の息子に出来るのは

自分が受けられなかった療育や

リハビリ、支援施設に通わせて

少しでも生きづらさを感じないように

させていくことしかできない。

 


私の人生はオフロードバイク

かけあがるような岩場の道だった。

だから息子の人生は四駆の車で

穏やかに広い見通しの良い道路を

走って欲しい。

 


その道路整備は私の仕事だ。

 


私と息子は宇宙人だけど

宇宙人同士だからこそ

理解できる特有の辛さは

あると思う。

 

 

 

 


元旦那や義理兄夫婦、

義両親の中では

人生において憎い人として

私を挙げるだろう。

 


私は色々な人から憎まれてる。

親友と縁が切れた時も

職場の見えない空気に

敢えて触れてしまった時も

傷つけてしまった時もあるけど

 


いまは宇宙人なりに

傷つけないように近づかないように

人との距離を持っていこうと

思っているつもりなんだ。

 


もう人と関わるのは怖い。

仕事面でも友達面でも。

いま関わりのある人たちは

私のこの闇を知らずに

関わっている人が多い。

 


敢えて過去の話をしたのは

私はこんな過去があって

人が怖くなっちゃってるんだ、と

伝えたくて書いたのもあるし

 


自分も客観的に

昔の話を見てみたくて

頑張って書いたのもある。

 


自閉症、とひとくちに聞くと

「ひきこもりっぽい」とか

「自分以外の人に何も言葉を

伝えられない病気だ」とか

思う人がいるのも現実。

 


そうではなくて

・自分の思いを伝える引き出しが少ない

(急かさなければしっかり言える)

・これを伝えると相手は傷つくかも、が

先に考えられなくてそのまま伝えてしまう

(建前が言えない、常に本音)

(ポジティブにいえば素直)

・自分から意見するのが難しくて

相手の表情のみで感情の判断をするので

相手の人は怒っていなくても

「この人は怒ってるかも...」と判断して

喋らない方がいいかも...と考えたりする

(実際は喋ってみないとわからないけど

それが難しかったりする)

(頭の中で1人で落ち込んだり怒ったり

感情が人一倍忙しい)

 


などなど...。

 


「普通に生きてる人には

理解されない感覚の中

生きている人」がASD

 

「タスクのキャパシティや

時間の把握、次の予定の把握

などが難しい」のがADHDかなと

わたしは考えている。

 

 

 

知らない人から見たら

一括りにされがちだけど

似て非なる障害。

 

 

 

(小さい頃に気づかれる家庭は

年々増えていっていますが

その中でも気づかれずに

大人になっていく人も

多いのが現実です。)

幼稚園休園、息子の看病、、。

日本中が大変な事態になってますね。

こうなるなんて2月の初めの時点では

思っていなかった私です。

 

息子の看病で2週間、

幼稚園を休むことになり

疲れが溜まってしまい

うまいこと更新できていませんでした。

 


息子が2/27~3/6まで体調不良で

幼稚園を休んでしまって

その間、熱が40度出る日もあって

この時期の病院は嫌だったけど

4軒くらい病院回ったりして

インフルエンザの検査やっても

全ての検査で陰性になり

なにが原因なのかも分からず

苦しむ息子を看病する日々


不安や泣きたくなる気持ちを抑え

分かった病名が中耳炎。

初めてなったので

分からなかったのか…

という気持ちと

耳の中が血だらけになっていて

なんでもっと早く気がついて

あげられなかったんだろう。

と自分を責めましたorz

 


いまはなんとか熱もおさまり

元気にしているので

ようやく登園出来るのかなと

感じていたところに

3月に入ってから地元で

コロナウイルスの感染者が出てしまい

幼稚園は休園に。。

 


息子の事を1番に考えてくださり

年長からの入園ではなく

年中クラスからの入園にしてもらい

園からの図らいのおかげもあり

他害行動のあった息子が

幼稚園の子達と馴染んで

他害なくしっかり行けるようになり

息子も登園を楽しみにしていたけれど

 


休みがもう1週間増えて

合計で3週間休み確定状態で

園と息子に対して

さらに申し訳なくなって

心が痛む今日です。

 


トイレットペーパーの悪質なデマで

色々な人達がパニックになり。

テレビでは根拠の無い予防法を報道して

店からヨーグルトやら納豆がなくなり。

 


(免疫力上がるのはわかるけど、

コロナに効く!みたいな書き方で

報道がなされたようで

根拠なき報道はやめてほしい。。)

 


うちの場合は

息子が納豆と卵のご飯しか

食べたくない!!と

時々偏食を起こしてしまう時があり

その時のためにストックしていて

切らしている時に限って

息子「TKG食べたい」

「納豆食べたい」が始まるので

買っておかないといけないのに

 


日曜の朝起きてSNS上をみたら

一部のニュース番組で

変な紹介の仕方をしたらしく

その番組の視聴者が

納豆を買い占めてる。と。

 


私その時感じてしまった。

 


昨日今日食ったくらいで

免疫力なんて上がらないし

そんな何個も買ったって

どうせ腐るんだから

いつもの量で買ってくれ...

トイレットペーパーの時と

何にも変わってないじゃないか。

 


小さい子供たちばかりが

行動の制限をされながら

どうして年配の方達は

自覚症状ありながら旅行したり

熱あったのに嘘ついてまで

ジムやらスナックやら行ったり

どっちが菌ばらまいてるか

わからないね、これでは。

 


色々な式や遊びを制限されてる今

子供たちのストレスは計り知れないし

ただでさえ友達と会えなくなったり

卒業式ができない地域も

きっとあるだろうに

大人がぶち壊してるじゃないか。。

 


と。

 

 

 

 


羽鳥慎一のモーニングショー、

今話題になっていますね。

流し見で観てた回で気になる事を

話していました。

 


都内の花見が出来る公園では

今年は花見は

自粛してくださいとのこと。

 


「大人が集まってお酒入ると

どうしても長居しちゃうし

大声で喋るから飛沫のリスクも高まるし

1つの器に盛られた物を

取り分けもせずつつくでしょう?

コロナにかかりやすいからダメです」

 


そのあとの発言は

 


「あ、でも家族程度で花見に来て

1時間以内にぱっと食べて帰るなら

いいと思います」

 


どういう線引きなのかな?

 


コロナに関する線引きは

よく分かりませんよね。

 


Twitter見ててもよく

「公園で遊んでたら通報された」とか

「公園では遊んでいいって言われてます」

とか、毎日論争が繰り広げられてて

 


どこを見渡してもコロナの話で

すこし疲れてきちゃってます。

 

 

 

 


現在、全国で色々な制限の中で

暮らしてる子供達には

どうか元気でいてほしい。

 


薬局で働く方や

薬局まで商品を運ぶ方、

倉庫で休日返上して

働く方々には

心からの感謝を。

 


どうか、このしんどい日々が

1日でも早く終わりますように。

いつもの平穏な日々が

皆に戻りますように。

 


この不安を少しでも軽くしたい。

少しでも楽しくいたい。

性被害のお話。

今日は、発達障害関連ではなく

過去の自分についての話を書こうと思う。


性的な話が多くなるので

不快な思いをされる人や

自分語りだろ、と思われる人は

回れ右でお願いいたします。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


1番最初の性についての不快感は

私が3〜4歳頃、幼稚園の頃だった。

相手は、血の繋がりのない姉の旦那さん。

旦那さんは甥っ子の年齢などから逆算して

40前後かと思われる。


「この人はどうして抱っこする時に

必ず胸をさわるのか」

「どうして私と車に2人きりに

なろうとするんだろう」

「どうしてこたつの中で足を触るの?」

小さいながらに心で感じてた。


血の繋がりのない姉は私の事を

「うちの親族の中で1番良い子」

「甥っ子の歳の近い遊び相手」

「私の居ない時に面倒を見てくれる頼れる子」

だと、親や周りにずっと自慢していた。


旦那さんがそんな事をしている、と

姉は思わなかったんだろう。

楽しそうに話してる輪の中で

私だけ嫌な思いをしていた。

輪を壊してしまいそうで

なかなか言い出せなかった。


ある時、それは突然終わりを迎えた。

いつものように甥っ子2人の子守をしに

学校終わりに甥っ子の家に遊びに行った。

かくれんぼしようかと提案したのは甥っ子。

甥っ子から届かない位置に隠れようとして

面白がって天井付近の押し入れに

隠れようと考えた私。


押し入れの扉を開けて、思わず驚いた。

目に入ってきたのは、いわゆるAVだった。


ランドセルを背負った女の子が

卑猥な事をされている画像が

パッケージされた大量のケース。


そのビデオのパッケージには

あきらかに当時の私と同い年の

身長、体格の子供が写ってた。


今思うと違法のビデオを持ってたのかな。


そのビデオを見つけた時は

私は6〜7歳くらいになってたんだけども

“見てはいけないものを見てしまった。“

そう思ってた。

小さいながら見ちゃいけないものが

視界に入って気が動転してその場で泣いた。


その日帰って母に話した。


かくれんぼしていて

甥っ子に見つからないような場所を

探して天井の押し入れを開けたら

卑猥なビデオを見つけた事。


小さい時から体を執拗に触られたりして

小さいながら嫌な思いをしたこと。

1回2回じゃないこと。


その話はその日のうちに姉に話され、

姉は溜まった不満が爆発したらしく

数ヶ月以内に離婚が決まった。

親権は姉が持ち、その後の旦那さんの

行方はだれも知らない。



2回目の性被害は小学校6年生の時。

保健体育で多少性について学ぶ時期。

同じクラスの外国の子が加害者だった。


被害に遭った日は卒業式が近くて

私の学校では6年生を送る会があった。


その会が終わり下級生達と共に帰宅して

いつものようにサッカーをしに

外国の子含めて数十人で遊んでた。


住んでたのが団地ということもあり

その地域に住んでた子達が

年上年下関係なく遊んでいて

この日々も中学に入ったら

なくなっちゃうのかな、と少し寂しかった。


(外国の子は以降T君と表記する)


T君に声をかけられてその遊び場から

5分ほど離れた川辺に連れて行かれた。


その子とはとても仲良しで

普段から2人で遊ぶくらいの仲。

声をかけられても不審に思わなかった。


連れて行かれた場所は歩いてる人もいない

整地されてない草むらの中のベンチ。


「ここに座って」


促されたのはひざの上。


なんで、って言っても

「いいから座って」


と言われ、渋々座る。


座ったら、下半身を触られた。

初めてガシガシされてしまったのだ。

痛くてその場で泣いて降りた。

何も言わずに去って泣きながら帰った。

相手は追いかけてこなかった。

 

親に話してT君の家まで行き

「お宅の息子さんにうちの娘が」状態。

向こうの母親は言葉が分からないながらも

泣きながら土下座してきた。

何かしたんだなというのは伝わってたようだ。


小学6年生という成長段階の体に

なんてことしてくれたんだ、と今は思う。

当時の自分は怖さしかなくて

気持ちが不安定になった。

今思うと本当に辛い出来事だった。



3回目の性被害は中学2年生の頃。

相手は1つ年上の先輩。


その日は学校のマラソン大会があって

不登校気味の当時の私は

校内にある「心の教室」という所に

身を寄せていた。

不登校、いじめ、人が怖い、などの理由で

クラスに行けない人たちが集まる教室。


その日、私は心の教室担当の先生に

「マラソンでないなら作文やっててね」

と言われて本を読みつつ3ページ分の

作文作成をしていた。

先輩は隣でPSP


数十分ふたりきりで無言を貫いていたが

無言が辛くてなにかしら話しかけようと

私から話しかけた。


「学校でゲームしたら怒られません?」

と私が声をかけると先輩は

「真面目すぎない?今先生居ないし大丈夫」

と答え、またそこから数十分無言になった。


先輩から今度は話しかけてきて

なに喋ったかは覚えてないけど

当時遊んでたネトゲの話をしてた気がする。


話してるうちに先輩の椅子の位置が

狭まってきていて、なんとなく不快だった。


「近くないすか?」と話しかけると

急に目の前に立つように立ち上がって

私が怖くて立ち上がって逃げようとすると

逃げ先をなくすかのように先回りをし

逃げられない、終わったな、と感じた。


そこからは捕まらないように

必死に逃げた。


広さでいうと図書室のすぐ横が

心の教室だったため

図書室の広さを使って精一杯に逃げた。


けれど捕まってしまった。

机の下に押し倒されて上の服を脱がされて

とてつもない強さで触られた。

嫌だ、と大きな声を出したら

隣の教室にいた保健の先生に声が届いたのか

すぐに来てくれた。


けれど

ドアの鍵は内側から閉められており、

保健の先生がすぐに入って来られなかった。


倒された机の下で出来る限りの抵抗をした。


数分が経った頃、心の教室担当の先生が

鍵を開けて入ってきてくれた。


先生が入ってきたときには

先輩はもう私の上から退いていて

何事もなかったかのように座ってた。


先生にあった事を話して

先輩に厳しく注意してもらい

私はその先輩となるべく被らないように

教室に通うようになった。



4回目の性被害は高校1年生の頃。

相手は初めて付き合った同じ高校の先輩。

生徒会長をしてて頼り甲斐のある印象だった。

友人との関わりの中に居て、沢山話してた。

付き合う話になって遊んでいた日。


「きょう休日だし、学校探検しに行こう」

と言われて通信制の生徒や先生のために

開いていた校門を開けてこっそり侵入した。


学校に侵入した後、先輩は

「ちょっと座って休憩しようか」

と言って校舎裏の広場に私を座らせた。


このまま帰ろうかと話してたときに

広場の冷たいレンガ柄の床に倒された。

相手の力も強くて抵抗が出来なかった。

とにかく剥がそうとどうにか動いたけど

わたしが動く度に手の力も強まり

手首が真っ赤になるほどの強さだった。


時間は昼の2時ごろだった記憶だけど

その日は本当に学校探検するんだと思ってた。

まさか性行為されるとは思ってなかった。


学校の警備をしていた人に見つかって

私も相手の先輩もとても怒られた。


あったことは当然学校に連絡が行くので

ゼミ担任に真相を聞かれた。


「この日あなたたち学校にいた?」

「あなた、何かされた?」


学校に着くなり会議室に呼ばれて

2人の先生と警備員の前で

どうされて、なにされて、というのを

事細かに話した。


・学校に来たのはただの好奇心である。

・こんな事になるとは思ってなかった。

・先輩がどう話したかは知らないけど、

許可なく生で挿入しようとするのは

わたしはアウトだと思う。

・場所もよくないと思うし嫌な思いをした。


いろんな事を1時間くらい話した。

ゼミ担任は私は悪くないよと言ってくれた。


数週間後、相手の先輩は

バイト先の肉屋の刃物を盗んで鞄に入れて

登校していることが学校にバレて

バレる頃には私との話が広まっており

学校にいられなくなって退学になった。


ゼミ担任は「あなたのせいじゃない」

「あんな鋭い刃物持ってたあの子が悪い」

「性被害も悪いけど、生徒として

この学校にはもう通わせることは出来ない」

と話してくれた。

その後のケアもゼミ担任がしてくれた。


ゼミ担任がいなかったらその先輩に

その日刺し殺されてたのかな、とか

その日にバレたのはなにかの運命なのか、とか

色々考えて日々を過ごした。


刃物の大きさは約25〜30センチで

お肉を切る際に使うナイフだったそう。



元旦那と別れるって話になる半年前から

元旦那からの生活費の支給は無くなっていた。

おむつ1つ買えない状況が続いてしまい

実母に状況を話して生活費を工面してもらった。

実母はとても怒っていた。


生活費の支給が無くなる頃、

発達障害を抱えている息子とはつい知らず

普通の子供なはずなのにどうして...?と

周りのママ友に対する劣等感が発生していて

育児ノイローゼになっていた。

重度のうつ病、対人恐怖症を発症した。


やりたいのに出来ない自分を責めては落ちた。

帰宅した元旦那に毎日同じ言葉をかけられた。

「家汚い」「1日何してたの」「洗い物は?」

「出来ないんじゃなくてやらないだけ」

うつ病なんて甘えてる人の言い訳だよ」

「俺の母親は仕事して同じ家事片付けてるよ」

言葉ではどれほど責められたか分からない。


私は息してても人に迷惑かけてるんだ、と

心の底から思わせた後に

身体だけ貸してと言われる。

思考なんて、心なんてとっくに死んでた。


それでも性行為は無くならなかった。


・嫌がる私を片手で押さえ付けて

喋れないようにもう片方の手で押さえて

行為に及ぶ


睡眠導入剤を飲んで爆睡してる日だと

分かってて寝てるのを良い事に行為に及ぶ

(朝起きると自分の異変に気付いて

後々聞いて判明する状態が続き

薬を飲んでも眠れなくなってしまったため

昼間の時間に子供と一緒に寝て

家事が進まない日が続いた)


・寝起きにおもいきり手首を押さえられて

内出血を起こし、中に出される

(無言でサッと用意して仕事に行く元旦那を

静かに泣きながらじっと耐えて

出て行った瞬間にお風呂場に行って

自分の中に出された液をひたすら掻き出して

私は何の為に生きてる?と自分を責めた)


生活費をもらえない状況下にいながら

自分の思考、体と心が死んでしまった。

 

元旦那にされた事やかけられた言葉が

多分生きてきて1番しんどかった。

今も夢に出てきて言われたりする。

そのたびに夢から醒めて

夢だ、って思って夜中に泣いたりする。

汗びっしょりになってる日もあったり

夢の中でボコボコにしてる時は

呻き声あげてる日もあったようだ。


今、生きている意味を問われるなら

私は何の為に生きてる?とまだ思う。


自己肯定感が、配偶者との行為で

完全に死んでしまったのだ。


それより前の被害は心が未熟で

未熟な中に入ってきたものだから

それを含めて成長して

「嫌なものだ」とは分かっているけど

「嫌なものだ」で済んできてる。

きっとそう思えるのは成長してるからだ。

というか、やっとそう思えるようにまで

心の大きさが大きくなってきたのだろうか。


何の為に生きてるのか、の意味は

まだ分からない。

まだ分からないけど

分かる余裕はいつか出来ると思ってる。

いまはまだしんどいけど。


長くなったので

元旦那との離婚直前の経緯などは

1度切ってまた落ち着いたら更新します。